北海道小樽の観光タクシー山崎がご案内致します 小樽鰊御殿(番屋)
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現存するニシン場建築では最大級のものであり、もともとは、積丹半島は泊村にあったものを、昭和33年、小樽市に移築されたものであります。建築者は、青森出身の田中福松氏、明治24年から 同33年まで、7年の歳月をかけて建築されたものです。
材料は、ヤチダモを主に、とど松、セン、土台には、内地から弁財船で運んだヒノキを使っています。ニシン全盛期には 120人からの若い衆が 寝泊りしていました。 函館から稚内までの日本海海岸線には、たくさんのニシン御殿が存在してます(観光用には未公開)                 明治31年 建築
鰊御殿。形式は鰊番屋、網元とやん衆が一緒に暮らした所。 近くには小樽水族館とノイシュロスホテル
小樽祝津港の漁船群。 最近は、少しずつニシンが回復してきています。でも冬の間は10日に一回くらいの出港です。北国の冬はきびしいんです。
ニシン漁について
皆さんは、ニシンと言うお魚をご存知ですか?カズノコは知ってるでしょう!カズノコの親がニシンで、ニシンの卵がカズノコなんです。 このニシンが北海道の日本海沿岸で、明治、大正、昭和の初期にかけて もの凄い大群が北の海から産卵のために 2、3,4月に押し寄せました。それも浅瀬で手掴みで捕れる位の大群でした。
ちなみに、ニシンの網元の年収と言うのが今の金額に換算して、20億〜25億位儲かった時もあったそうです。ですが、それも昭和30年頃を境にまるっきり捕れなくなりました。でも 網元はニシン大漁の夢を捨てることができませんでした。待って、待っても、何年待ってもニシンは来なくなりました。結局ニシンの網元は、ほとんどが蓄えていた財産も全部使い果たし、後に残ったのがニシン漁最盛期に建てた豪邸だけになりました。
 
ニシン漁でなぜ儲かったか?
ニシンが群来してた時代は、明治から昭和の初期にかけてですが、この頃の日本は戦争のもっとも多かった時代で、日本は非常に食料不足でした。そこで国は、内地で農作物を作らせるために、北海道では、農作物を作るための肥料を作らせたのです。その肥料の原料がニシンです。ですから、捕れたニシンは大きな釜で煮て、潰して、脂を抜いたり、食べる分は乾燥(みがき鰊)として保存食として使われました。 そして その肥料は、国がすべて買い取ってくれました。(ほとんど米と同じ位の値段) ですから網元は、ニシンさえ来てくれれば、儲かったんです。
 
ニシンがなぜ捕れなくなったか?
産卵で来たニシンを網で捕りまくったんですから、捕りすぎが原因かも知れませんが、私的には海流の変化、水温の変化が原因ではないかと思います。 ただ最近は、また少しづつ捕れて来てますので、また何年か後には、きっとニシンが群来して来ると思います。 
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