北海道小樽観光ジャンボタクシーがオススメの義経と弁慶の伝説の地をタクシーで観光と説明です。
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兄頼朝に追われた義経は、歴史上では、1189年平泉は、衣川の戦いに敗れ、藤原泰衡に殺害されたそうです。でも、北海道の残るアイヌの言い伝えによると義経一行は 日本海側を北へ逃げて、最後にジンギスカンになったそうです。義経が歩いたルートを私と共に歩いてみませんか?ご案内いたします。

津軽の三厩(ミンマヤ)から北海道にたどり着いた義経一行。まずは江差町から話を進めていきます。港には函館戦争時の開陽丸が観光用として停泊されてます。鴎島の東側に白馬が首を上げてるような岩があります、義経の愛馬だったそうです。 義経の後を追った姫、静御前は、乙部町の九郎岳(現在は乙部岳)で逢うことができず、悲観した姫は川に身を投げてしまいました。この川を「姫川」、義経と逢えなかった峠を「姫待峠」と云います。義経は、悲運を遂げた祖父の六条判官為義のために、この地に碑を建てられたそうです。それが六条の森といい、現在は竹森と云うそうです。元和台には、桂の大木があります、はるか奥州が恋しく義経は、この木に登って奥州を懐かしんだようです。さらに北上しますと太櫓町には、武蔵坊弁慶がアイヌに義経が捕らわれそうになったとき、弁慶が投げつけた大きな岩があります。乙部町で2年間暮らした後に義経一行は九郎岳を越えて羊蹄山を目印に、さらに日高山脈を目印に平取町に向かったそうです。きっと平取町にはアイヌの大部落があって、大酋長に会いに行ったんだと思われます。平取町にしばらく滞在して、義経一行は援軍を迎えるために、遠くまで見通しの利く「弁慶岬」に向かったと思われます。昭和 63年4月に「弁慶像」がたてられました。見通しのいい岬で、風の名所でもあります。この岬の横に小高い丘があって、ここで義経、弁慶一行はしばらく滞在したそうです。旅立ち最後の晩に弁慶は、金の銚子と盃を近くの木の根元に埋めたそうです。かならず生まれ変わってここに戻ってくると。これを掘り出したら天罰が下ると言い残して。また、力持ちの弁慶が相撲をとったと云われる土俵も残ってます。その後、義経一行は日本海に沿って北上します。ところが、雷電の険しい山々で、アイヌの酋長の攻撃にあい、捕らわれてしまいました。アイヌの人たちは神の信仰が深く、神は義経拘束を非常に怒り、義経一行を手厚く介抱しました。義経を介抱したのが酋長の娘、メヌカでした。いつしかチパには義経に恋心が芽生えてきました。いつしか義経の傷も癒えて旅立ちの日を迎えました。義経は「らいねん」かならず戻ってくるとメヌカに言い残して旅立ったそうです。 
 注: 文字用の領域がありません!
雷電」の地名は「らいねん」からきたそうです。この雷電には、弁慶が大刀を岩に掛けて休んだといわれる刀掛岬、また刀掛岬には武器や財宝が眠ってると云われる不落の洞窟があります。残念ながら船でしか行くことができません。この洞窟は高さ16m、幅4m、奥行きは約80mまで確認されてるそうです。ただ奥行きは寿都町まで繋がってると言う話もあります。また、帰らない義経に絶望し、メヌカが身を投げたのがこの付近で、「悲恋の穴」とも呼ばれています。義経一行にとってはさすがに北海道の寒さはきびしく、そこで弁慶は木を切っては薪を積み上げ、その薪が岩になったのが「弁慶の薪積み岩」です。昭和63年5月岩内スキー場にある大きな岩に、源氏家の家紋とみられる「笹りんどう」隠し彫りされてるのが発見されました。 岩内町から積丹半島神恵内村までの道をカブトラインといいます。その中間地点にあるのが泊村での「兜岩」です。義経がアイヌの酋長に金の兜を贈ったそうです、酋長は大事にその金の兜を岬の洞窟に隠したそうですが、隠し場所を誰にも言わずに亡くなったそうです。
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